今回は生け花の世界で私が皆さんにご紹介したい人物を取り上げます。
第1回目は安達流(あだちりゅう) 安達 瞳子(あだち とうこ)先生についてです。

肩書き 花芸安達流主催、花芸安達流会長
生年月日 昭和11年6月22日
出生地 東京都 港区
学歴 学習院女子高等学校
経歴からしてお嬢様という印象です。彼女の父、安達潮花先生(1887年12月11日〜1969年6月5日)は生け花の天才です。7歳から池坊の生け花を習い始め大学は早稲田大学に進みますが中退。花の道に進みます。彼の時代、生け花の基本的な考え方は伝統型を重視するもので一切の独創性は許されていませんでした。それに反旗を翻したのが安達潮花先生です。「一切の因習、定型を捨てて模倣を為さず」と提唱。安達式挿花を起こしました。当時、生け花ではあまり使われなかった西洋花を使い洋風化し始めた生活様式に合う新しい生け花を創案、特に当時の奥様方から絶大な支持を受けました。また彼は椿を生ければ右に出るもの無しと言われるほどの椿の名手でもありました。
安達瞳子先生はその安達潮花先生の次女にあたります。彼女は父の功績を引き継ぐ形で植物の生態、形態に立脚した五つの基本型の確率。日本の伝統的な型を基本とする閉鎖的な花の世界から脱却して自然の中の動きを原型とした「動の世界」を創出。華道の教授法を改革して今の教室での指導を始めておこないました。(ちなみに以前の生け花の教授方法は生徒さん宅への戸別訪問が主流でした)この功績により潮花氏より後継者指名を受けます。
しかしここで親子に確執が起こります。潮花氏の晩年の作品が非常に技巧的になってきたのです。技巧に偏り衰退していった流派は沢山あります。江戸中期から明治初期にかけて隆盛を極めた遠州流がその代表でしょうか。自然には無い不自然な曲がりをした枝ぶりは自然の動きを意識した動の花を授かった瞳子氏にとっては耐えられなかったでしょう。彼女は突然父親にこう叫ぶのです。
「私は椿ではなく桜の旅に出ます!」
彼女は小さなアパートの一室に「安達瞳子政策室」という生け花流派を新たに立ち上げます。その後、潮花先生は陶芸の道を選んだ長男を無理に呼び戻し後継者としますが、その長男は生け花など全くやる気もなく毎日呑んだくれる日々を送り49歳の若さで亡くなってしまいます。そして父、潮花先生の死をもって安達流は安達瞳子氏を家元として統合されました。
早くから西洋花や西洋芸術と生け花の融合という大変な作業に携わった安達流。この功績は潮花氏と非常に親交の深かった勅使河原蒼風氏に引き継がれる形で草月流として大きく花咲きます。
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