生け花偉人伝 (2) 草月流 二代目家元 勅使河原 霞(てしがわら かすみ)

人物

今回は生け花偉人伝第二回目ということで、草月流二代目家元 勅使河原 霞(てしがわら かすみ)先生についてご紹介したいと思います。

肩書き 草月流 二代目家元

生年月日 1932年10月20日

出生地 東京

学歴 白百合学園中等部

勅使河原 霞先生は草月流の創始者、勅使河原 蒼風(てしがわら そうふう)先生の長女で中学より本格的な生け花の英才教育を受けます。この勅使河原 蒼風先生、生け花の天才であり当時の新興生け花勢力の雄と言われた人物です。彼の活動は海外にまで及び、フランスの芸術文化勲章、レジェンドヌール勲章の受賞、ニューヨーク「20世紀博・世界の彫刻家20人展」招待出品するに至ります。そして東京青山に壮大な草月会館を建設し、何故かご自身が否定された家元制度を始めてしまうのです。そしてその中心に据わる花こそが勅使河原 霞先生です。まだ20代になったばかりの霞先生はその美貌と合わせて社交界の華であり次代の草月流の象徴となったのです。

霞先生は実力も相当なもので、まず海外に生け花を紹介することから始めて他にも、オブジェ、絵画、彫刻、インテリアなど多方面に活躍。またその美貌を活かしてテレビ番組にも多数出演しています。生け花では一輪花・小品花を得意とし、ミニチュアールという独自の生け花も生み出します。

※一輪花・小品花…生け花の中で一番難しい生け方の一つ。普通サイズの生け花を人に例えるならこの一輪花・小品花は人の顔に例えられる。不必要なものは全て省き、必要な部分だけを切り取って生けるもの。特に器とのバランスが取りづらく、生け手のセンスが非常に問われる。下画像がその一例となります。

※ミニチュアール…霞先生はこのように言われることを非常に嫌っていたようです。当時のインタビューでは「この生け方を始めたのには私なりに一つの動機があって、人に見てもらいたいとか珍しがらせたいとかゆう狙いで始めたものではありません。当時私自身の生け花がただ神経質で抹消的なことだけを気にしたり、くよくよしたりでどうしても客観的にものを捕らえることが出来なかったので、どうしたら全体を考え環境を活かす見方が自分の花でできるだろうかと思い悩んだ末にこの小さな生け方を考え出したのです。こんな見方をしてものを眺めるとあらゆる品物の材質が興味深く、壊れてしまったり使いきって捨てしまうようなものでも、もう一度眺め直して見るという習慣がつきました。下画像に一例を。

1956年のこと。驚天動地のスキャンダルが発生します。霞先生が突然、

「草月を継ぐことを放棄してでも、あの人と一緒になります。」と宣言!霞先生24歳、お相手は武田陽信34歳、彼は妻と2児の父親でした。怒った蒼風(そうふう)先生は霞先生を破門。何故なら裏千家の3男との縁組がその時進んでいたのです。

その後、霞先生は武田氏と結婚。一時は草月流を離れますがその後蒼風先生より復帰を許されます。1979年9月、勅使河原 蒼風死去。10月に晴れて二代目草月流家元を襲名しますが1年足らずで脳腫瘍のために亡くなられました。48歳の若さでした。

追記)私は生け花の新興流派、安達流と草月流に妙な共通点を見出してしまいます。どちらの流派も2代目候補が先代と対立してしまい一時流派を離脱してしまうこと。また2代目が若くして両流派とも亡くなってしまうこと。補足ですが生け花流派は現在数多く存在しますが元は一流派に落ち着きます。池坊です。新興流派はこの池坊の花型だったり家元制度に反旗を翻して成立したものです。蒼風先生も元々はこの家元制度には非常に懐疑的でした。因果応報とはこのことなのでしょうか。

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