
今回は『花のピカソ』と言われた天才、勅使河原蒼風先生をご紹介したいと思います。私自身非常に尊敬する方であるのとから、今迄ブログにて書くことを躊躇しておりましたがやっと気力が整いましたので執筆させていただきます。
まず蒼風先生は1900年(明治33年)、華道家・勅使河原 久次の長男として大阪府堺市に生まれました。本名は、勅使河原 鉀一(てしがわら こういち)。
ここで補足といたしまして勅使河原 久次氏を簡単にご紹介したいと思います。彼は江戸時代から続く遠州流という特殊花技で有名な流派出身と言われています。その後、池坊未生流などの花技を学び流派を否定した『日本生花学会』を主宰しました。
江戸時代から続く華道の跡取りとして、5歳の頃から父 久次氏より‘いけばな‘の英才教育を受けます。蒼風先生もおっしゃっておりましたが、久次氏は蒼風先生を学校には通わさず古事記や日本書紀、和歌や日本画に書といった日本芸術に関するものしか与えませんでした。また人間が腐るということで睡眠時間は4時間と決められていたそうです。
このような厳しい修行に明け暮れるうちに、やがて蒼風先生は卓越した才能を発揮していきます。何と師範代として小学生の年で弟子の家に教授して回るのようになるのです。久次氏も将来を非常に期待していたようですが、蒼風先生自身は早々に父の花に限界を感じていたようで型通りにいけるそれまでの‘いけばな‘に疑問を持つようになります。科学的に花を分析しようとする父に対し、創造的で芸術的な花を主張する蒼風先生は度々対立するようになります。
そして1927年(昭和2年)、父と決裂して草月流を創始。青山の借家に『投入花盛教授』の看板を掲げて独立を果たします。ただ独立当初は生徒も集まらず非常に貧しい生活を強いられます。花器を揃えるのもままならず、割れたビール瓶や器等何にでも自身のセンスにて花を作品へと昇華させていきます。
1928年(昭和3年)、銀座千疋屋にて第1回草月流展を開催。流麗な投入れや盛花の自由な造形が評判となり、一躍注目を集めるようになります。半年後にはNHKラジオの『家庭講座』に出演し、いけばな講座を担当。この放送をきっかけに草月流が広く知られるようになります。
1930年(昭和5年)、美術界に起こったアバンギャルド運動の影響を受け、‘いけばな‘をより先鋭的に芸術として確立することを目的に、重森三玲、中山文甫らと「新興いけばな宣言」を発表。従来の床の間の‘いけばな‘からの解放、誰にでもできる投入・盛花を主張し、1933年(昭和8年)には起草を協議したが、戦争の激化に伴い運動は立ち消えとなりました。同年、東京・麹町三番町に草月流講堂を竣工。3階建てのモダンな建物が評判となります。この頃、それまで勢いのあった安達流を抜き新興‘いけばな‘流派では人気トップの座を獲得します。理由は基本型が100以上もある安達流に対し、草月流が出来るだけ基本型を絞ったことが挙げられるでしょう。
1939年(昭和14年)、日本大学芸術科の「自然造形論」の講師に就任。1945年(昭和20年)、いけばなを復興のシンボルとし、戦後初の‘いけばな‘展「勅使河原蒼風・小原豊雲二人展」を開催します。
この時期、蒼風先生は小川青虹という謎の美女をいつも伴うようになります。この女性は知る人ぞ知る、かつて新渡戸稲造の秘書だった女性で、新渡戸に‘いけばな‘を勧められて蒼風先生の門下に入ります。美人の青虹は英語も達者だったようで、1946年(昭和21年)、米軍将校の施設「バンカース・クラブ」でマッカーサー元帥夫人や駐留将校夫人たちに‘いけばな‘を紹介し蒼風先生との橋渡しを積極的におこないました。アーニー・パイル劇場(日比谷東宝宝塚劇場)での‘いけばな‘展、GHQバンカース・クラブでの指導など、のちに草月イケバナ・インターナショナルとして世界に広がった種は、ほとんどがこの時期に撒かれたものです。
1949年(昭和24年)、第1回文部大臣招待日本花道展に「再建の賦」を出品。これまで線の流れを重視してきた作風からボリュームを強調した「マッス」の大作表現に基軸を移します。その後、「望古譜」「玄華」「虚像」といった作品を次々に発表。また、「ひまわり」「古事記」といった連作は国際的にも高い評価を受け、‘いけばな‘の芸術性を内外に高めました。その後も、毛糸、針金、ガラスなどの日常素材によるオブジェで草月流を大衆化する一方、枯木、樹根、石、鉄、陶器などを使ってバロック的なモニュメントを制作し、‘いけばな‘を造形芸術として捉えました。しかし、既存の華道の世界において重要な型を否定して自由な‘いけばな‘を提唱したことから異端視されるようにもなっていきます。
1952年(昭和27年)、国際フラワーショーの審査員として招待され初渡米。ニューヨークで個展と講習会、「後ろいけ」という手法で観客側を正面として観客に向かい作品の背後から手探りでいけていくデモンストレーションを開催。これを機に、世界各国で展覧会やデモンストレーションを精力的におこなっていきます。
1957年(昭和32年)、第1回東京国際版画ビエンナーレ「とげ」が入選。同年、フランスから来日した前衛芸術の評論家ミシェル・タピエが蒼風先生の作品を絶賛し世界に紹介します。これにより国際的な評価が高まるとともに日本でも広く認知されるようになります。
1960年(昭和35年)、フランス政府より日本人初の芸術文化勲章オフィシェ章を受章。翌年には、フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章シュヴァリエ章を受章。
1962年(昭和37年)、第12回芸術選奨文部大臣賞を受賞。
1979年(昭和54年)、9月5日 心不全のために死去。享年78歳。
コメント
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