‘いけばな’偉人伝(4) 前衛いけばな 中川 幸夫(なかがわ ゆきお)

人物

今回は久々の‘いけばな’偉人伝!ご紹介する方は中川 幸夫(なかがわ ゆきお)先生です。

上画像の左側で杖をついている方が中川先生、右側にいらっしゃる方が舞踏家の大野 一雄(おおの かずお)先生です。

中川先生はとにかく全てが破天荒、‘いけばな’界ではテロリストとまで言われていました。この一見優しそうな御仁の壮絶なる人生をこれからご紹介していきましょう。

先生は1918年(大正7)、香川県丸亀市生まれました。 
幼少の頃、事故が原因で脊椎カリエスにかかり地元の小学校を卒業して間もなく大阪の石版印刷屋へ奉公に出ます。そして朝8時から夜l0時まで働き、やがて有能な石版画職人となりました。しかしその後、病が悪化し帰郷。祖父と伯母が池坊(いけのぼう)の讃岐支部幹部であったこともあり叔母のもとで‘いけばな’を始めます。 1947年には鳴滝に池坊最高位の後藤正一を訪ねて立花(りっか)を習います。立花とは池坊最高峰の型と言われるもので‘いけばな’の原点となるものです。


戦後、創刊されたばかりの専門誌『いけばな芸術』へ送付した作品写真が造園家の重森 三玲(しげもり みれい)氏に認められて名が知られるようになります。重森氏が主催する‘いけばな’の研究集団・白東社に参加。以後、京都の重森邸へ通い、器や掛軸など美術工芸の粋を見て学び、芸術談議に花を咲かせたそうです。

順風満帆と思われた‘いけばな’人生の矢先、1951年に衝撃的な事件が起こります。なんと『文科省華道日展』で落選をしてしまったのです。その時の作品がこちら❗️

え!(‘◉⌓◉’)と思われた方も多いのではないでしょうか。そうです…白菜です😅題名は『ブルース』。この作品、格式ある池坊にあって到底受け入れられるものではなかったらしく当時の家元と衝突💥ついには先生が33歳の時に池坊を脱退してしまいます。その時の先生のお言葉がこちら❗️

決定的に自由でありたい

1955年、先生は故郷の四国丸亀から上京します。いかなる流派にも属さない、どこからの束縛も受けない。門弟二百万人を抱える最大流派の池坊に背を向け、一人のまったく独立した作家として、人生のすべてを花に賭けようと決意するのです。たった一人で・・・。いや、出発に先立ち、中川先生はある人に電報を打ちます。

「トウキョウデ マツ ユキオ」

受けたのは生涯の伴侶となるたった一人の同志、半田唄子氏です。九州の由緒ある流派の家元であった彼女は上京に先立ち自らの手で流派を解散してしまいます。家元の地位を捨てて命がけの上京でした。

‘いけばな’業界で生きるということは普通、誰かに教えてその月謝で食べていくというのが一般的です。しかし流派に属さない人間ではそもそも無理な話です。流派の看板もなく、最大流派の家元からもうとんじられ、ましてや‘いけばな’とも見えない異形の花を活ける中川先生に当時、人が集まるはずもありませんでした。ここで先生の代表的な作品を数点ご紹介したいと思います。

作品名「花坊主」。ガラスに900本のカーネーションを詰め、時間の経過とともに分離した色素と水分で白い和紙を染めていく作品です。花は死ぬ直前、悲鳴を上げる瞬間すらも美しいと先生は言っています。まさに狂気の世界❗️

作品名「闡(ひらく)」4500本ものチューリップを腐らせた作品です。花の肉の塊は圧倒的で妖艶な匂いを発しています。(非常に臭いますが😅)

このように先生の作品は人に教えられるようなものではありませんでした。そのため二人の生活は非常に困窮します。窮状を見兼ねた知り合いのつてでキャバレーで花を活け、その報酬で中野の6畳1間のアパートの家賃を払えばもういくらも残らなかったそうです。またお店の都合でそのお金さえ予定の日にもらえないことも、しばしばだったそうで…その時のお言葉がこれ。


「電車賃がないから2時間歩いて行ってるんです。それが、『今日は都合が悪いから』って。また歩いて帰るんです。遠い、遠い。往復四時間ですからね」バラ、椿・・・空腹の余り、活け終わった花たちを食べたことさえありました。「わりと甘いもんだけど、ゆでたりすればもっと良かったかもしれないね」
 

6畳間の2人の戦場に、高笑いが弾けたそうです。

白菜をいけて池坊脱退声明を表し、33歳で流派を去りその後は流派に属さず弟子をとらず‘いけばな’を中心に、ガラス、書、写真、舞踏家等の活動をおこないました。その集大成がこちら❗️

作品名『天空散華』です。舞い踊る舞踏家、大野一雄氏に100万枚のチューリップの花びらが空から降り注ぎます。『瞬間の芸術』の極地がここに表現されました。

戦後の急激ないけばなの近代化は中川幸夫,勅使河原蒼風,中山文甫,小原豊雲たちによって展開され,使用する素材の領域を拡大して鉄や石や鳥の羽根,貝などの無機物までを含めていけばなの新たな造形活動に発展していきました。前衛いけばな運動と呼ばれたこの運動は,当時の前衛美術と提携して出発したものですが,やがてその政治性を否定して‘いけばな’はその芸術的側面においてのみ運動を続けました。しかも前衛いけばなの運動は数多くの作家を生みながら,しだいに流派組織の中に組みこまれ,流派はかえって前衛運動とは背反する中央集権的組織をつくりあげていったのです。中川先生はこれを嫌って生涯いかなる組織にも属さず、また組織を作らず『決定的な自由』を貫きました。

中川先生のお言葉

「花はね、猛々しいものなんです。決められた型なんかに納まらない。その花のね、自分は、ここをこう選ぶんだと、責任持ってね。だから、絶対に流派の問題じゃない。個人の問題。流派は『型』は教えるけど、『血』を教えることはできませんからね」

 

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コメント

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